スタディツアーに参加して 大阪大学2回生 山口 直樹
「自分の魂がワクワクする方へ行けば良いと思うよ」
自分が悩んだり、考え込んだりするときに思い出す恩師の言葉があります。この言葉の通り、このインドへのスタディツアーのパンフレットを見たときに、「ここに行こう!」そう思いました。気付いた時には、それまでに入っていた予定をすべてキャンセルし、インドへ行くため、ひたすらバイトに明け暮れていました。
もともと途上国支援や貧困問題などに関心があり、今の学科(国際公共政策学科)に入ったのですが、自分自身“途上国”と呼ばれる国に実際に行ったことはこれまでなく、本やテレビなどを通して、2次的な情報をもとに“途上国”というイメージを自分の中で勝手に作っていました。しかし、インドで出会った人や目で見たもの、肌で感じたものは、それまでの自分自身が描いていたイメージとは異なったものでした。
「ぴるみれんげ~(またね!)」異国の地で初めて出会った教室の子供たちはもちろん、服屋の兄ちゃん、トゥクトゥクのおっちゃん、スーパーのおじさん、朝から一緒にサッカーをしてくれたおっちゃん達、、、まるで昔からの友人のように、別れ際にはこの言葉が飛び交っていました。良く言えばとてもフレンドリーで、時には慣れなれしすぎるんじゃないか?と思うほど、インド人の人たちは人懐っこく、良い意味で人間臭い国だな。これが、私がインドから帰ってきた今、まず最初に思い浮かぶインドの印象です。
「インドに行けば価値観が変わる」私自身よく耳にする言葉です。では、私自身の価値観がこのスタディツアーを通して変わったのか?そう考えてみると、はっきりと変わったかどうかはわかりません。そもそも自分自身の価値観がどのようなものなのかもわかっていないのかもしれません。ですが、実際に、最初にムンバイに到着した日にバスの中から見える景色。。小さい子供が道路脇で眠っていて、自分の妹よりも小さな子供が物乞いをしている。言葉では表せない気持ちを感じました。物乞いをされた時の気持ち、物をあげた時の気持ち、断った時の気持ち。どんなに素晴らしい教授が講義をしたとしても、どれだけ文才のある作者が描いた文章を読んだとしても、決して知ることはできない気持ちを、実際に感じることができました。
先に、インドに抱いていた自分自身のイメージと、目でみたもの、肌で感じたものは異なっていたと述べましたが、それは、僕が勝手に抱いていたイメージ“貧しい人たちは、不幸で、つらい表情をしているんだろう”といったものでした。ですが、スラムで暮らす子供たちや、たまたま出会った数多くの人たちの笑顔は、どれも素敵で、その屈託のない笑顔に多くを考えさせられました。
「幸せってなんだろう?」
日本の方がモノは確実に満たされているし、あらゆる面で快適なはず、なのに、日本人はどこか冷めているし、生きることに辛そうな人が多いじゃないか!今自分自身が考えている“幸せ”は、必ずしも他の人たちの幸せとは限らないんだ。普通に考えれば、ごくごく当たり前なこと「60億人いれば60億通りの幸せの形がある」ということを改めて気づかせてもらえました。ただ、国際協力だ、ボランティアだ、と言っても、それは決して押し付けになってはいけず、相手の文化、環境、様々なことを知り、理解しようと努めること、まずはそこから始めなければならないということを強く感じました。
また、インドの人たちの素晴らしい笑顔、子供たちの素晴らしい笑顔に心癒されると同時に、インドに行く前の自分が考えていたことで、インドに行って改めて同じような思いを抱いたこともありました。それは、まだまだ彼ら自身で自分たちの現状を変えることは難しく、彼らの現状を変えることができるのは、もしくは、その手助けをできるのは、恵まれた環境にいる私たちに他ならないということです。私自身が、今の学科を目指そうと思ったきっかけの一つに「世界がもし100人の村だったら」という本があります。私は今、大学の教育を受けることができる100人のなかのたった1人であり、銀行に預金があり、家に小銭の入った財布がある世界の上位7%の人のうちの1人です。このことは、日本に暮らしている多くの人たちにとっては、今や当たり前のこととなっています。そして、当たり前であるがゆえに、時に私たちは、当たり前のことが当たり前にできる幸せを忘れがちになってしまっています。ですが、今回このインドでのスタディツアーに参加したことで、この本で読んだことがとてもリアルに感じられ、改めて、自分がいかに恵まれていて、どれだけ幸せな生活を送ることができているのか、この恵まれた環境にいる私たちには、弱い立場にある人たちのために行動する責任がある、ということを強く感じることができました。
最後に、このスタディツアーに参加して、私はとうていこの数枚の感想文にはおさまりきらない、言葉にできない経験をたくさんさせていただきました。「百聞は一見にしかず、百見は一触にしかず」“生”のインドという国に触れ、このインドという異国の地で懸命にインドの人達と向き合っているスタッフのみなさんと出会い、偶然出会ったツアー参加者のみんなと、時にはふざけあい、時には真剣な話を語り合ったこの11日間は、私にとってかけがえのない財産になりました。
「本当にこの活動は現地の人たちのためになっているのだろうか?」
国際協力やボランティアに従事している人が、常に考え続けていることだと思います。特にこの光の教室での活動は、途上国のインフラを整備するといったような、はっきりと目に見えるものとして成果に現れづらい、難しい活動だと思います。と同時に、本当に本質的な、“人として”大切なコトに真摯に向き合っている魅力的な活動だと感じました。そして、日本に帰った今、強く感じていることがあります。それは、スタディツアーの最終日が、この出会いの別れではなく、新たな始まりであったということです。
スタッフのみなさん、スタディツアーに関わったすべての人に。
「ありがとう、これからもよろしく^^僕も一緒に向き合います^^」
自分が悩んだり、考え込んだりするときに思い出す恩師の言葉があります。この言葉の通り、このインドへのスタディツアーのパンフレットを見たときに、「ここに行こう!」そう思いました。気付いた時には、それまでに入っていた予定をすべてキャンセルし、インドへ行くため、ひたすらバイトに明け暮れていました。
もともと途上国支援や貧困問題などに関心があり、今の学科(国際公共政策学科)に入ったのですが、自分自身“途上国”と呼ばれる国に実際に行ったことはこれまでなく、本やテレビなどを通して、2次的な情報をもとに“途上国”というイメージを自分の中で勝手に作っていました。しかし、インドで出会った人や目で見たもの、肌で感じたものは、それまでの自分自身が描いていたイメージとは異なったものでした。
「ぴるみれんげ~(またね!)」異国の地で初めて出会った教室の子供たちはもちろん、服屋の兄ちゃん、トゥクトゥクのおっちゃん、スーパーのおじさん、朝から一緒にサッカーをしてくれたおっちゃん達、、、まるで昔からの友人のように、別れ際にはこの言葉が飛び交っていました。良く言えばとてもフレンドリーで、時には慣れなれしすぎるんじゃないか?と思うほど、インド人の人たちは人懐っこく、良い意味で人間臭い国だな。これが、私がインドから帰ってきた今、まず最初に思い浮かぶインドの印象です。
「インドに行けば価値観が変わる」私自身よく耳にする言葉です。では、私自身の価値観がこのスタディツアーを通して変わったのか?そう考えてみると、はっきりと変わったかどうかはわかりません。そもそも自分自身の価値観がどのようなものなのかもわかっていないのかもしれません。ですが、実際に、最初にムンバイに到着した日にバスの中から見える景色。。小さい子供が道路脇で眠っていて、自分の妹よりも小さな子供が物乞いをしている。言葉では表せない気持ちを感じました。物乞いをされた時の気持ち、物をあげた時の気持ち、断った時の気持ち。どんなに素晴らしい教授が講義をしたとしても、どれだけ文才のある作者が描いた文章を読んだとしても、決して知ることはできない気持ちを、実際に感じることができました。
先に、インドに抱いていた自分自身のイメージと、目でみたもの、肌で感じたものは異なっていたと述べましたが、それは、僕が勝手に抱いていたイメージ“貧しい人たちは、不幸で、つらい表情をしているんだろう”といったものでした。ですが、スラムで暮らす子供たちや、たまたま出会った数多くの人たちの笑顔は、どれも素敵で、その屈託のない笑顔に多くを考えさせられました。
「幸せってなんだろう?」
日本の方がモノは確実に満たされているし、あらゆる面で快適なはず、なのに、日本人はどこか冷めているし、生きることに辛そうな人が多いじゃないか!今自分自身が考えている“幸せ”は、必ずしも他の人たちの幸せとは限らないんだ。普通に考えれば、ごくごく当たり前なこと「60億人いれば60億通りの幸せの形がある」ということを改めて気づかせてもらえました。ただ、国際協力だ、ボランティアだ、と言っても、それは決して押し付けになってはいけず、相手の文化、環境、様々なことを知り、理解しようと努めること、まずはそこから始めなければならないということを強く感じました。
また、インドの人たちの素晴らしい笑顔、子供たちの素晴らしい笑顔に心癒されると同時に、インドに行く前の自分が考えていたことで、インドに行って改めて同じような思いを抱いたこともありました。それは、まだまだ彼ら自身で自分たちの現状を変えることは難しく、彼らの現状を変えることができるのは、もしくは、その手助けをできるのは、恵まれた環境にいる私たちに他ならないということです。私自身が、今の学科を目指そうと思ったきっかけの一つに「世界がもし100人の村だったら」という本があります。私は今、大学の教育を受けることができる100人のなかのたった1人であり、銀行に預金があり、家に小銭の入った財布がある世界の上位7%の人のうちの1人です。このことは、日本に暮らしている多くの人たちにとっては、今や当たり前のこととなっています。そして、当たり前であるがゆえに、時に私たちは、当たり前のことが当たり前にできる幸せを忘れがちになってしまっています。ですが、今回このインドでのスタディツアーに参加したことで、この本で読んだことがとてもリアルに感じられ、改めて、自分がいかに恵まれていて、どれだけ幸せな生活を送ることができているのか、この恵まれた環境にいる私たちには、弱い立場にある人たちのために行動する責任がある、ということを強く感じることができました。
最後に、このスタディツアーに参加して、私はとうていこの数枚の感想文にはおさまりきらない、言葉にできない経験をたくさんさせていただきました。「百聞は一見にしかず、百見は一触にしかず」“生”のインドという国に触れ、このインドという異国の地で懸命にインドの人達と向き合っているスタッフのみなさんと出会い、偶然出会ったツアー参加者のみんなと、時にはふざけあい、時には真剣な話を語り合ったこの11日間は、私にとってかけがえのない財産になりました。
「本当にこの活動は現地の人たちのためになっているのだろうか?」
国際協力やボランティアに従事している人が、常に考え続けていることだと思います。特にこの光の教室での活動は、途上国のインフラを整備するといったような、はっきりと目に見えるものとして成果に現れづらい、難しい活動だと思います。と同時に、本当に本質的な、“人として”大切なコトに真摯に向き合っている魅力的な活動だと感じました。そして、日本に帰った今、強く感じていることがあります。それは、スタディツアーの最終日が、この出会いの別れではなく、新たな始まりであったということです。
スタッフのみなさん、スタディツアーに関わったすべての人に。
「ありがとう、これからもよろしく^^僕も一緒に向き合います^^」
スタディーツアーを終えて 大阪大学1回生 板倉 美聡
まさに「今」発展している国なのだ。というのが、11日間の旅を
振り返る私にとってのインドを、最も端的に表した言葉である。
初めてムンバイについた日の夜のことは忘れられない。10時間ものフライトを終えて疲れきったバスの中、窓から飛びこんでくる見たことの無い世界に夢中になった。互いに押し合いへし合うように並んだ店の数々、そこら中で寝ている人々、やせほそった野犬たち・・・。
ムンバイという都市は、そこに生きる人々の鼓動が聞こえてきそうである。
4人家族で600人もの召使を抱える一家と、アジア最大のスラム街で生活する何万もの人々が、そして物乞いを仕事として強く生きる子ども達と、清楚な制服を着て学校に通う子ども達が共に生きている。町にはごみが溢れ、野犬が闊歩し、信号もほとんどなく、おびただしい数の人々と車が混在している。しかし格差も貧困もごみも野犬も、すべて人間の生活が営まれれば、それに付随して発生するものであって、それゆえに人間の営みの一部とすら言えるのではないだろうか。
ムンバイという町は、そういったもののすべてを受け容れて成り立っているからこそ、混沌に満ちた、生きている町なのだと私は感じた。デリーやアグラの無機質な町並みは、それとまさに対照的だった。観光都市として、国際社会に向けて取り繕ったかのようなその景色は、私の知っている世界と重なる物があった。整備された道路や空港、豪華なホテル…。しかし、ところどころ工事中らしい殺風景が広がっていたりと、その都市はまさに「先進国の首都」として形作られている途中なのだと感じられた。美しい芝生の公園を見るたびに、昔この場所にはどんな景色があったのだろうか、どんな人々の生活があったのだろうかと、見たことの無い過去に思いをはせずにはいられなかった。
インドで感じたことはそれだけではない。最後の夕食でも口にしたように、この11日間の旅で、私はもっと人間のことが好きになった。教室の子ども達が、「ディディ!ディディ!」と、無邪気に私を呼ぶ声や、別れ際に「ピルミレンゲ!」と、小さな体で力いっぱい叫んでくれた
言葉が今でも耳から離れない。
気づけば行きつけのお店となっていた、町のお菓子屋さんのおじいちゃんは、ほとんど言葉は交わさなくても、私が幸せいっぱいでお菓子を頬張るのをいつも嬉しそうにみつめていた。
早朝のムンバイのグランドで出会ったフットサルチームのコーチは、「もっとパスを回すんだ!」
と偉そうに指示しながら、自分はゴール前でひたすらシュートを狙うだけの困ったおじさんだったが、ホテルに帰ろうとする私達をいつも「あと5分だけ!」と全力で引き止め、最後の日には
「今週末飲もうぜ!」と無理やり誘ってくる、強引で温かい人だった。
最終日に出会った物乞いの子ども達の「おなかすいたよぅ・・・」という迫真の演技、思わず差し出した私の100ルピー札を握り締めて狂喜乱舞するその姿に、たくましい「生きる力」を感じた。他にも、二階の踊り場でおしゃべりに興じるホテルプラザの従業員や、手を合わせて
「ナマステ!」と言いさえすれば、笑顔で応じてくれる道行く人々、そしてもちろん、大好きなツアーの仲間達・・・。この旅で、貧困や幸せの意味を考えさせられ、自分の将来の夢に疑問を持ったりする瞬間も数多くあったが、それでも、やはり自分は人のために働きたいと、そう強く感じた。この先私は社会に出て、人間の汚いところをたくさん見るかもしれない。しかし、それでも、この「人間が好き」だという感情が根幹にあれば、私は将来、自分のしたい仕事を強くやり抜いていける気がする。
「今」この時も、インドは発展していっている。デリーやアグラは町中が綺麗に取り繕われ、ムンバイのスラム街は15年以内に住宅街へと変貌する予定である。それはある意味、「日本化」に等しい。この旅で、日本が美しいのはムンバイが受け容れてきた汚い部分をすべて排除してきたからではないかと感じた。公私の境界がはっきり引かれ、秩序で貫かれるのと同時に、人と人の繋がりも分断されてしまっている日本。公共物である橋に洗濯物が干され、道路で体を洗う人々が見られるほど、公私の境界があいまいで人々が同じ混沌のなかに生きているインド。いつかまた、この国を訪れた時、発展の過程で日本が失ってきたものがこの場所にあり続けることを願ってやまない。
振り返る私にとってのインドを、最も端的に表した言葉である。
初めてムンバイについた日の夜のことは忘れられない。10時間ものフライトを終えて疲れきったバスの中、窓から飛びこんでくる見たことの無い世界に夢中になった。互いに押し合いへし合うように並んだ店の数々、そこら中で寝ている人々、やせほそった野犬たち・・・。
ムンバイという都市は、そこに生きる人々の鼓動が聞こえてきそうである。
4人家族で600人もの召使を抱える一家と、アジア最大のスラム街で生活する何万もの人々が、そして物乞いを仕事として強く生きる子ども達と、清楚な制服を着て学校に通う子ども達が共に生きている。町にはごみが溢れ、野犬が闊歩し、信号もほとんどなく、おびただしい数の人々と車が混在している。しかし格差も貧困もごみも野犬も、すべて人間の生活が営まれれば、それに付随して発生するものであって、それゆえに人間の営みの一部とすら言えるのではないだろうか。
ムンバイという町は、そういったもののすべてを受け容れて成り立っているからこそ、混沌に満ちた、生きている町なのだと私は感じた。デリーやアグラの無機質な町並みは、それとまさに対照的だった。観光都市として、国際社会に向けて取り繕ったかのようなその景色は、私の知っている世界と重なる物があった。整備された道路や空港、豪華なホテル…。しかし、ところどころ工事中らしい殺風景が広がっていたりと、その都市はまさに「先進国の首都」として形作られている途中なのだと感じられた。美しい芝生の公園を見るたびに、昔この場所にはどんな景色があったのだろうか、どんな人々の生活があったのだろうかと、見たことの無い過去に思いをはせずにはいられなかった。
インドで感じたことはそれだけではない。最後の夕食でも口にしたように、この11日間の旅で、私はもっと人間のことが好きになった。教室の子ども達が、「ディディ!ディディ!」と、無邪気に私を呼ぶ声や、別れ際に「ピルミレンゲ!」と、小さな体で力いっぱい叫んでくれた
言葉が今でも耳から離れない。
気づけば行きつけのお店となっていた、町のお菓子屋さんのおじいちゃんは、ほとんど言葉は交わさなくても、私が幸せいっぱいでお菓子を頬張るのをいつも嬉しそうにみつめていた。
早朝のムンバイのグランドで出会ったフットサルチームのコーチは、「もっとパスを回すんだ!」
と偉そうに指示しながら、自分はゴール前でひたすらシュートを狙うだけの困ったおじさんだったが、ホテルに帰ろうとする私達をいつも「あと5分だけ!」と全力で引き止め、最後の日には
「今週末飲もうぜ!」と無理やり誘ってくる、強引で温かい人だった。
最終日に出会った物乞いの子ども達の「おなかすいたよぅ・・・」という迫真の演技、思わず差し出した私の100ルピー札を握り締めて狂喜乱舞するその姿に、たくましい「生きる力」を感じた。他にも、二階の踊り場でおしゃべりに興じるホテルプラザの従業員や、手を合わせて
「ナマステ!」と言いさえすれば、笑顔で応じてくれる道行く人々、そしてもちろん、大好きなツアーの仲間達・・・。この旅で、貧困や幸せの意味を考えさせられ、自分の将来の夢に疑問を持ったりする瞬間も数多くあったが、それでも、やはり自分は人のために働きたいと、そう強く感じた。この先私は社会に出て、人間の汚いところをたくさん見るかもしれない。しかし、それでも、この「人間が好き」だという感情が根幹にあれば、私は将来、自分のしたい仕事を強くやり抜いていける気がする。
「今」この時も、インドは発展していっている。デリーやアグラは町中が綺麗に取り繕われ、ムンバイのスラム街は15年以内に住宅街へと変貌する予定である。それはある意味、「日本化」に等しい。この旅で、日本が美しいのはムンバイが受け容れてきた汚い部分をすべて排除してきたからではないかと感じた。公私の境界がはっきり引かれ、秩序で貫かれるのと同時に、人と人の繋がりも分断されてしまっている日本。公共物である橋に洗濯物が干され、道路で体を洗う人々が見られるほど、公私の境界があいまいで人々が同じ混沌のなかに生きているインド。いつかまた、この国を訪れた時、発展の過程で日本が失ってきたものがこの場所にあり続けることを願ってやまない。
If I find it, I will practis it. 悟ったことは、実践する! 関西学院大学1回生 齋藤 未歩
日本に帰りたくないと喚いていたぐらい、このインドでの11日間は本当に素敵な日々でした。途上国で生きる人々を見てみたい・・・ある意味こんな思いは、そこで生きる人達にとって失礼なことかもしれません。でも正直、そんな思いがあって、自分の目で見て感じて触れてみたくて、スラムに暮らす子ども達に会いに行く、このスタディーツアーに参加しました。
「インドに行く」と友人や家族に話すと、たいてい、安全性や衛生的な問題に関する返答しかなく、否定的な印象が強いように思われます。しかしこの11日間で私はインドが好きになり、もっともっと知りたい、また行きたい、それくらい実りのある旅でした。
光の教室の子ども達と接している中で、ある女の子をおんぶしながらスラムを回っていたとき、ある女の子が、私がおんぶしていた女の子に向かって、怒った顔をして何か言っていました。
何を言っているのかも分からず、ジェスチャーで察することしかできませんでしたが、きっと、「お姉ちゃんの背中から降りなさいよ。あっちいって、こっちに来ないで。」といった内容だと思います。同じスラムの世界の中でも差別はあるんだなあ、と子どもたちの無邪気な屈託のない笑顔を見ているからこそ、複雑な思いをした出来事でした。
一方、あまり子ども達と馴染めなかった私に、ある男の子が「あそこが僕の家だよ!こっちがお父さんで、これが僕のお母さん!あそこにいるのがお姉ちゃんでお医者さん目指してるんだ」と、気さくに案内して、迎え入れてくれて本当に嬉しかったです。
インド政府によるスラム撤廃のための立ち退きがされていることを知ったとき、悲しくなりました。「スラム」と言うけれど、あそこは何も変わらない、彼らのホームであり、コミュニティであり、毎日の営みがある場所です。スラム=貧しい=悪い、そんなイメージが自分の中にあり、貧困はいけないことだからどうにかしなくちゃ。そんな考え方しかもっていませんでした。
確かにその考えもありだと思いますが、1番大切なのは彼らの大切なものを守ること、残すことだと思います。よりよい暮らし、幸せのために、全て排除し、奪い、新しいものを強要するのはおかしいし、何の解決にもならないし、悪循環なままだと思います。
私達との追いかけっこや、ぼうしの奪い合い、歌やダンスといった芸術教育など、体を通して体感した喜びや楽しさは忘れられないものだと思います。久しぶりにダンスができたことの嬉しさが、彼らの夢中になって踊る熱心な取り組みから感じられました。そういったプラスの感情をもっともっと子どもたちに持ってほしいです。何か、夢中になれるもの、得意なものがあると、それはその人自身を豊かに大きくしてくれると思います。そして他人とその喜びを分かち合える、いずれは人の痛みや悲しみをも分かち合えるひとになってほしいです。
BLPでのお話は貴重なものでした。高校時代にハンセン病をもとに人権について考える研修会に参加したことがありますが、今もなお実際に診療にあたるBLPのスタッフさんからハンセン病の詳しい説明をうけました。その中でも、患者だけではなく、その家族やコミュニティに対して行っている、ハンセン病の正しい理解を促す教育は、文化的な差別をうけ隔離された日本の反省を活かしている活動だと思いました。
JICAのインド事務所にも訪問させていただきましたが、事務所に訪問だなんてなかなかない機会だったのでとても楽しみにしていました。JICAの詳しい概要を説明してくださり、この、光の音符のプロジェクトの進行状況、成果、課題など、光の音符のスタッフさんとJICA職員の方々のやり取りを聴いている中で、国際協力の分野に興味のある私は、プロジェクトを回す側であるJICAと、実際の活動の担い手である光の音符のスタッフさんの双方の立場からお話がきけてよかったです。
みんなでサリーを着てタージマハルを観光した後、宮崎松記先生のお墓に行きました。
宮崎先生は、日本で「ハンセン病患者を隔離する」という法律の作成に賛同した1人で、後に、とても強い非難をうけました。その後、宮崎先生はインドでハンセン病患者と向き合い、病院を建て、献身的な診療にあたったという話を聞きました。この話を聞いて、何があっても、周りにどう言われようと思われようと、自分の正しいと思ったことを、最後まで貫き通す、やり抜く、そういったブレない心を持ちたいと思いました。
ムンバイとデリー、それぞれに良さがあり、私はどちらも好きです。インドに滞在中、日が経つにつれて、つくづく面白いところだなあと思いました。面白いと思うのも、この場所が、この場所で生きる人々が、文化、宗教、生活といったあらゆる面で多様だからだと思います。多様だからこそ、知れば知るほど分からない部分もあるのではないかなと思います。
そんなインドで吸収したものは今後の自分の糧となると思います。
If I find it, I will practice it.
インドで出会った子ども達、目の当たりにした現実、その中で生きる彼らの生き様。
そこから考えたこと感じたことを含め、私がこの旅で得た多くのものを少しでも多く、フィードバックしていこうと思います。
「インドに行く」と友人や家族に話すと、たいてい、安全性や衛生的な問題に関する返答しかなく、否定的な印象が強いように思われます。しかしこの11日間で私はインドが好きになり、もっともっと知りたい、また行きたい、それくらい実りのある旅でした。
光の教室の子ども達と接している中で、ある女の子をおんぶしながらスラムを回っていたとき、ある女の子が、私がおんぶしていた女の子に向かって、怒った顔をして何か言っていました。
何を言っているのかも分からず、ジェスチャーで察することしかできませんでしたが、きっと、「お姉ちゃんの背中から降りなさいよ。あっちいって、こっちに来ないで。」といった内容だと思います。同じスラムの世界の中でも差別はあるんだなあ、と子どもたちの無邪気な屈託のない笑顔を見ているからこそ、複雑な思いをした出来事でした。
一方、あまり子ども達と馴染めなかった私に、ある男の子が「あそこが僕の家だよ!こっちがお父さんで、これが僕のお母さん!あそこにいるのがお姉ちゃんでお医者さん目指してるんだ」と、気さくに案内して、迎え入れてくれて本当に嬉しかったです。
インド政府によるスラム撤廃のための立ち退きがされていることを知ったとき、悲しくなりました。「スラム」と言うけれど、あそこは何も変わらない、彼らのホームであり、コミュニティであり、毎日の営みがある場所です。スラム=貧しい=悪い、そんなイメージが自分の中にあり、貧困はいけないことだからどうにかしなくちゃ。そんな考え方しかもっていませんでした。
確かにその考えもありだと思いますが、1番大切なのは彼らの大切なものを守ること、残すことだと思います。よりよい暮らし、幸せのために、全て排除し、奪い、新しいものを強要するのはおかしいし、何の解決にもならないし、悪循環なままだと思います。
私達との追いかけっこや、ぼうしの奪い合い、歌やダンスといった芸術教育など、体を通して体感した喜びや楽しさは忘れられないものだと思います。久しぶりにダンスができたことの嬉しさが、彼らの夢中になって踊る熱心な取り組みから感じられました。そういったプラスの感情をもっともっと子どもたちに持ってほしいです。何か、夢中になれるもの、得意なものがあると、それはその人自身を豊かに大きくしてくれると思います。そして他人とその喜びを分かち合える、いずれは人の痛みや悲しみをも分かち合えるひとになってほしいです。
BLPでのお話は貴重なものでした。高校時代にハンセン病をもとに人権について考える研修会に参加したことがありますが、今もなお実際に診療にあたるBLPのスタッフさんからハンセン病の詳しい説明をうけました。その中でも、患者だけではなく、その家族やコミュニティに対して行っている、ハンセン病の正しい理解を促す教育は、文化的な差別をうけ隔離された日本の反省を活かしている活動だと思いました。
JICAのインド事務所にも訪問させていただきましたが、事務所に訪問だなんてなかなかない機会だったのでとても楽しみにしていました。JICAの詳しい概要を説明してくださり、この、光の音符のプロジェクトの進行状況、成果、課題など、光の音符のスタッフさんとJICA職員の方々のやり取りを聴いている中で、国際協力の分野に興味のある私は、プロジェクトを回す側であるJICAと、実際の活動の担い手である光の音符のスタッフさんの双方の立場からお話がきけてよかったです。
みんなでサリーを着てタージマハルを観光した後、宮崎松記先生のお墓に行きました。
宮崎先生は、日本で「ハンセン病患者を隔離する」という法律の作成に賛同した1人で、後に、とても強い非難をうけました。その後、宮崎先生はインドでハンセン病患者と向き合い、病院を建て、献身的な診療にあたったという話を聞きました。この話を聞いて、何があっても、周りにどう言われようと思われようと、自分の正しいと思ったことを、最後まで貫き通す、やり抜く、そういったブレない心を持ちたいと思いました。
ムンバイとデリー、それぞれに良さがあり、私はどちらも好きです。インドに滞在中、日が経つにつれて、つくづく面白いところだなあと思いました。面白いと思うのも、この場所が、この場所で生きる人々が、文化、宗教、生活といったあらゆる面で多様だからだと思います。多様だからこそ、知れば知るほど分からない部分もあるのではないかなと思います。
そんなインドで吸収したものは今後の自分の糧となると思います。
If I find it, I will practice it.
インドで出会った子ども達、目の当たりにした現実、その中で生きる彼らの生き様。
そこから考えたこと感じたことを含め、私がこの旅で得た多くのものを少しでも多く、フィードバックしていこうと思います。
初めてのインドで 神戸大学1回生 後藤 聡美
このスタディツアーは私にとって初めての海外だった。数ヶ月前は自分がインドに、それも、スラムに行くなんて想像もしていなかった。初めて足を踏み入れる異国の地では、見るもの聞くもの全てが真新しく興味深いものばかりだった。
教室に向かうバスの中から外を眺めると、物乞いをする若いお母さんや裸で泣き叫ぶ赤ちゃん、屋外で体を洗う人・・・。テレビや本で見たことはあったが、実際目にすると、やはり大きな衝撃を受けた。ところが教室に着いた瞬間、笑顔の子ども達が迎えてくれた。スラムでの厳しい生活環境を全く感じさせないほど元気だった。教室では、皆で歌を歌ったりダンスをしたり、とても楽しい時間を過ごした。また生徒の家を訪問した際、家の中を見学させてもらったり、朝ごはんを分けていただいたりもした。 日本にいた時は、メディアから得た知識だけで、スラムに住む子ども達のことを「可哀想」だと思っていた。「不幸なんだ」と思っていた。しかし実際はどうかわからないけど、少なくとも私の目には彼らは幸せそうに見えた。先入観だけで彼らを「不幸」「可哀想」と決めつけていた自分が恥ずかしくなった。
ツアー中に行われた数回のミーティングでは、自分がいかに無知であったかを思い知り、それと同時にもっとインドのことを勉強したい、と感じた。 このツアーを通して、私は、インドという国とそこに住む人々が大好きになった。しかし、インドの暗い部分や目を背けたくなる部分も見受けられ、矛盾を感じることも多々あった。
―幸せとは何か― 光の音符のスタッフの方が講演会でしきりに口にしていた言葉。この言葉を聞いてツアー参加を決めた。帰国から数日経った今も、この問いの答えは見つかっていないが、これから長い時間をかけて考えていきたいと思う。 この『スラムに暮らす子ども達に出会う旅』ではとても充実した11日間を過ごした。非常に貴重な体験をさせていただいたし、大切な仲間にも出会えた。参加して良かったと心から思う。
教室に向かうバスの中から外を眺めると、物乞いをする若いお母さんや裸で泣き叫ぶ赤ちゃん、屋外で体を洗う人・・・。テレビや本で見たことはあったが、実際目にすると、やはり大きな衝撃を受けた。ところが教室に着いた瞬間、笑顔の子ども達が迎えてくれた。スラムでの厳しい生活環境を全く感じさせないほど元気だった。教室では、皆で歌を歌ったりダンスをしたり、とても楽しい時間を過ごした。また生徒の家を訪問した際、家の中を見学させてもらったり、朝ごはんを分けていただいたりもした。 日本にいた時は、メディアから得た知識だけで、スラムに住む子ども達のことを「可哀想」だと思っていた。「不幸なんだ」と思っていた。しかし実際はどうかわからないけど、少なくとも私の目には彼らは幸せそうに見えた。先入観だけで彼らを「不幸」「可哀想」と決めつけていた自分が恥ずかしくなった。
ツアー中に行われた数回のミーティングでは、自分がいかに無知であったかを思い知り、それと同時にもっとインドのことを勉強したい、と感じた。 このツアーを通して、私は、インドという国とそこに住む人々が大好きになった。しかし、インドの暗い部分や目を背けたくなる部分も見受けられ、矛盾を感じることも多々あった。
―幸せとは何か― 光の音符のスタッフの方が講演会でしきりに口にしていた言葉。この言葉を聞いてツアー参加を決めた。帰国から数日経った今も、この問いの答えは見つかっていないが、これから長い時間をかけて考えていきたいと思う。 この『スラムに暮らす子ども達に出会う旅』ではとても充実した11日間を過ごした。非常に貴重な体験をさせていただいたし、大切な仲間にも出会えた。参加して良かったと心から思う。
“私らしい作曲家”として生きること 愛知県立芸術大学3回生 金森 詩乃
私がツアーに加するきっかけとなったのは、光の音符の活動に作曲家として携わる、久留(智之)先生の研究室でパンフレットを見たことである。学内での久留門下演奏会において、ゆりさんによる活動紹介と、門下生による一作目の歌の発表があったときに関心を持った。
小学生の頃、黒柳徹子著の『トットちゃんとトットちゃんたち』という本を読み、途上国における子どもの教育について何かしたいと考えながらも、その教育を音楽でやりたいと思った以外
何も具体化しなかった。自分の考えている事のあまりの無謀さに、実現させるための方法すら
分らず、「理想」だとして逃げてきたのが事実である。
しかし、必修授業である作曲理論を久留先生が担当され、アジアの作曲家として、現代社会の中でどのように生きるかをテーマに、音楽の創作についての根本的な問いかけや考察をトランスカルチュラル的立場から行う、という内容を通して、ただ曲を書いても生きていけないことを、重々承知の上この大学に入学したものの、この2年で私は作曲の勉強しかしてこなかったことに気付いた。来年は教育実習もあることを考えると、今しかなかった。
今、逃げてきた自分を変えなかったら後で後悔する、諦めるなら最善を尽くしてからにしようと決めて、私はインドの地を踏んだ。
初日の晩、ゆりさんは「ガンジーとマザーテレサの共通点は一人で変化を起こしたこと。インド人にはそういう生きる力がある。」とお話しして下さった。その時はただ、ふーんとしか思わなかったが、子どもたちの屈託のない笑顔やスラムに生きる人たちと出会い、その言葉の示すものの大きさを肌で感じた。
音楽の先生が教室にきた日に、キーボードを使って少しだけ授業のお手伝いをしたのだが、
この立場に立ってみると教育の現状というものをひしひしと感じることが出来た。先生はコードもメロディーも全部手さぐりで私に教えてくれた。あとは、子どもに囲まれる先生の口を追いかけて、声を拾い出して、必死についていく。私からしてみれば理論的にも技術的にも難しいことはないのだが、とにかく手探りでも子どもに音楽を通して教育を楽しんでいる先生の姿勢は、音楽家としての私自身と向き合う大きな機会となった。
ムンバイ最終日でのパーティーで、私は初めて将来自分のやりたいことを人に話した。
“現代音楽と国際協力の交差点にある何か”。まだまだ抽象的で具体化されたわけではないが、真剣に聴いてくれる仲間がいる今は、前とは絶対違うと感じる。
西洋音楽を押し付けることはしたくない、とずっと思っていた。そもそも彼らの中で、音楽は生活そのものであり、根本的な部分で鑑賞用の音楽と次元を異にするからである。
それをするエネルギーがあるならば、私は彼らがその土地固有の音楽に触れ合う時間に割きたいと思う。でも、教室で教えていた先生のように音楽をツールとして彼らが豊かになるのであれば、どのような音楽でもいいと、今は思う。
新大陸でジャズという新ジャンルが生まれた時に起こった、方向性を斉しくする別物の融合と同じような事が、私の頭の中で現代音楽と国際協力という2つの間で起こるのにはもう少し時間がかかりそうであるが、諦めずに考えて実現させていきたい。
そして頭のほんの片隅で、私が創った音楽で一人でも多くの人が
癒され、また、笑顔になれたらと、微かに思いを馳せている。
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小学生の頃、黒柳徹子著の『トットちゃんとトットちゃんたち』という本を読み、途上国における子どもの教育について何かしたいと考えながらも、その教育を音楽でやりたいと思った以外
何も具体化しなかった。自分の考えている事のあまりの無謀さに、実現させるための方法すら
分らず、「理想」だとして逃げてきたのが事実である。
しかし、必修授業である作曲理論を久留先生が担当され、アジアの作曲家として、現代社会の中でどのように生きるかをテーマに、音楽の創作についての根本的な問いかけや考察をトランスカルチュラル的立場から行う、という内容を通して、ただ曲を書いても生きていけないことを、重々承知の上この大学に入学したものの、この2年で私は作曲の勉強しかしてこなかったことに気付いた。来年は教育実習もあることを考えると、今しかなかった。
今、逃げてきた自分を変えなかったら後で後悔する、諦めるなら最善を尽くしてからにしようと決めて、私はインドの地を踏んだ。
初日の晩、ゆりさんは「ガンジーとマザーテレサの共通点は一人で変化を起こしたこと。インド人にはそういう生きる力がある。」とお話しして下さった。その時はただ、ふーんとしか思わなかったが、子どもたちの屈託のない笑顔やスラムに生きる人たちと出会い、その言葉の示すものの大きさを肌で感じた。
音楽の先生が教室にきた日に、キーボードを使って少しだけ授業のお手伝いをしたのだが、
この立場に立ってみると教育の現状というものをひしひしと感じることが出来た。先生はコードもメロディーも全部手さぐりで私に教えてくれた。あとは、子どもに囲まれる先生の口を追いかけて、声を拾い出して、必死についていく。私からしてみれば理論的にも技術的にも難しいことはないのだが、とにかく手探りでも子どもに音楽を通して教育を楽しんでいる先生の姿勢は、音楽家としての私自身と向き合う大きな機会となった。
ムンバイ最終日でのパーティーで、私は初めて将来自分のやりたいことを人に話した。
“現代音楽と国際協力の交差点にある何か”。まだまだ抽象的で具体化されたわけではないが、真剣に聴いてくれる仲間がいる今は、前とは絶対違うと感じる。
西洋音楽を押し付けることはしたくない、とずっと思っていた。そもそも彼らの中で、音楽は生活そのものであり、根本的な部分で鑑賞用の音楽と次元を異にするからである。
それをするエネルギーがあるならば、私は彼らがその土地固有の音楽に触れ合う時間に割きたいと思う。でも、教室で教えていた先生のように音楽をツールとして彼らが豊かになるのであれば、どのような音楽でもいいと、今は思う。
新大陸でジャズという新ジャンルが生まれた時に起こった、方向性を斉しくする別物の融合と同じような事が、私の頭の中で現代音楽と国際協力という2つの間で起こるのにはもう少し時間がかかりそうであるが、諦めずに考えて実現させていきたい。
そして頭のほんの片隅で、私が創った音楽で一人でも多くの人が
癒され、また、笑顔になれたらと、微かに思いを馳せている。