“私らしい作曲家”として生きること 愛知県立芸術大学3回生 金森 詩乃
私がツアーに加するきっかけとなったのは、光の音符の活動に作曲家として携わる、久留(智之)先生の研究室でパンフレットを見たことである。学内での久留門下演奏会において、ゆりさんによる活動紹介と、門下生による一作目の歌の発表があったときに関心を持った。
小学生の頃、黒柳徹子著の『トットちゃんとトットちゃんたち』という本を読み、途上国における子どもの教育について何かしたいと考えながらも、その教育を音楽でやりたいと思った以外
何も具体化しなかった。自分の考えている事のあまりの無謀さに、実現させるための方法すら
分らず、「理想」だとして逃げてきたのが事実である。
しかし、必修授業である作曲理論を久留先生が担当され、アジアの作曲家として、現代社会の中でどのように生きるかをテーマに、音楽の創作についての根本的な問いかけや考察をトランスカルチュラル的立場から行う、という内容を通して、ただ曲を書いても生きていけないことを、重々承知の上この大学に入学したものの、この2年で私は作曲の勉強しかしてこなかったことに気付いた。来年は教育実習もあることを考えると、今しかなかった。
今、逃げてきた自分を変えなかったら後で後悔する、諦めるなら最善を尽くしてからにしようと決めて、私はインドの地を踏んだ。
初日の晩、ゆりさんは「ガンジーとマザーテレサの共通点は一人で変化を起こしたこと。インド人にはそういう生きる力がある。」とお話しして下さった。その時はただ、ふーんとしか思わなかったが、子どもたちの屈託のない笑顔やスラムに生きる人たちと出会い、その言葉の示すものの大きさを肌で感じた。
音楽の先生が教室にきた日に、キーボードを使って少しだけ授業のお手伝いをしたのだが、
この立場に立ってみると教育の現状というものをひしひしと感じることが出来た。先生はコードもメロディーも全部手さぐりで私に教えてくれた。あとは、子どもに囲まれる先生の口を追いかけて、声を拾い出して、必死についていく。私からしてみれば理論的にも技術的にも難しいことはないのだが、とにかく手探りでも子どもに音楽を通して教育を楽しんでいる先生の姿勢は、音楽家としての私自身と向き合う大きな機会となった。
ムンバイ最終日でのパーティーで、私は初めて将来自分のやりたいことを人に話した。
“現代音楽と国際協力の交差点にある何か”。まだまだ抽象的で具体化されたわけではないが、真剣に聴いてくれる仲間がいる今は、前とは絶対違うと感じる。
西洋音楽を押し付けることはしたくない、とずっと思っていた。そもそも彼らの中で、音楽は生活そのものであり、根本的な部分で鑑賞用の音楽と次元を異にするからである。
それをするエネルギーがあるならば、私は彼らがその土地固有の音楽に触れ合う時間に割きたいと思う。でも、教室で教えていた先生のように音楽をツールとして彼らが豊かになるのであれば、どのような音楽でもいいと、今は思う。
新大陸でジャズという新ジャンルが生まれた時に起こった、方向性を斉しくする別物の融合と同じような事が、私の頭の中で現代音楽と国際協力という2つの間で起こるのにはもう少し時間がかかりそうであるが、諦めずに考えて実現させていきたい。
そして頭のほんの片隅で、私が創った音楽で一人でも多くの人が
癒され、また、笑顔になれたらと、微かに思いを馳せている。
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小学生の頃、黒柳徹子著の『トットちゃんとトットちゃんたち』という本を読み、途上国における子どもの教育について何かしたいと考えながらも、その教育を音楽でやりたいと思った以外
何も具体化しなかった。自分の考えている事のあまりの無謀さに、実現させるための方法すら
分らず、「理想」だとして逃げてきたのが事実である。
しかし、必修授業である作曲理論を久留先生が担当され、アジアの作曲家として、現代社会の中でどのように生きるかをテーマに、音楽の創作についての根本的な問いかけや考察をトランスカルチュラル的立場から行う、という内容を通して、ただ曲を書いても生きていけないことを、重々承知の上この大学に入学したものの、この2年で私は作曲の勉強しかしてこなかったことに気付いた。来年は教育実習もあることを考えると、今しかなかった。
今、逃げてきた自分を変えなかったら後で後悔する、諦めるなら最善を尽くしてからにしようと決めて、私はインドの地を踏んだ。
初日の晩、ゆりさんは「ガンジーとマザーテレサの共通点は一人で変化を起こしたこと。インド人にはそういう生きる力がある。」とお話しして下さった。その時はただ、ふーんとしか思わなかったが、子どもたちの屈託のない笑顔やスラムに生きる人たちと出会い、その言葉の示すものの大きさを肌で感じた。
音楽の先生が教室にきた日に、キーボードを使って少しだけ授業のお手伝いをしたのだが、
この立場に立ってみると教育の現状というものをひしひしと感じることが出来た。先生はコードもメロディーも全部手さぐりで私に教えてくれた。あとは、子どもに囲まれる先生の口を追いかけて、声を拾い出して、必死についていく。私からしてみれば理論的にも技術的にも難しいことはないのだが、とにかく手探りでも子どもに音楽を通して教育を楽しんでいる先生の姿勢は、音楽家としての私自身と向き合う大きな機会となった。
ムンバイ最終日でのパーティーで、私は初めて将来自分のやりたいことを人に話した。
“現代音楽と国際協力の交差点にある何か”。まだまだ抽象的で具体化されたわけではないが、真剣に聴いてくれる仲間がいる今は、前とは絶対違うと感じる。
西洋音楽を押し付けることはしたくない、とずっと思っていた。そもそも彼らの中で、音楽は生活そのものであり、根本的な部分で鑑賞用の音楽と次元を異にするからである。
それをするエネルギーがあるならば、私は彼らがその土地固有の音楽に触れ合う時間に割きたいと思う。でも、教室で教えていた先生のように音楽をツールとして彼らが豊かになるのであれば、どのような音楽でもいいと、今は思う。
新大陸でジャズという新ジャンルが生まれた時に起こった、方向性を斉しくする別物の融合と同じような事が、私の頭の中で現代音楽と国際協力という2つの間で起こるのにはもう少し時間がかかりそうであるが、諦めずに考えて実現させていきたい。
そして頭のほんの片隅で、私が創った音楽で一人でも多くの人が
癒され、また、笑顔になれたらと、微かに思いを馳せている。